日本語とアメリカ語

投稿者: | 2011-06-02

5月12日前後の北海道新聞に載っていた「ローカル極め世界へ」と題する記事の中で、照屋林賢氏がこんなことを言っていた。

海外に行けばグローバルになると思われている。能や歌舞伎がそうなように、自分たちを極めればインターナショナルになる。

音楽業界人は何かというと海外に売り込もうというが、相手の土俵に迎合してもしょうがない、という文脈だったと思うが、実に禿同である。

たまたまこういう本を読んでいた。

日本と外国では、「虹は何色と考えるか?」など言語以前に文化習慣の根っこのところが違うとか、日本語の音素の少なさと漢字との分かち難い関係など、外国語と対比した時の日本語の特質をいろいろな角度から考察する。そして、いまある日本語をもっと大事にしようや・・・と著者はつぶやく。絶滅危惧種・日本語に憐れみにも似たまなざしを向けるのである。

さすがに日本語表記をアルファベットに、という暴論はもはや力を持っていないと思うが、漢字を減らせという「間違った圧力」はなお強いと思うし、なにより生活レベルで無批判に増え続けるカタカナ語、さらにその闇雲な略語などがますます隆盛を極めている(「リア充」とかもう意味わかんないし)事実には、日本語の崩壊を感じざるを得ない。

近ごろネットを渉猟していると(とくに各種のWebサービスを利用したりしていると)、日本語はほとんどアメリカ語に呑み込まれようとしていると感じる。

自分もそういう環境にいるし、それを押しとどめようという気概もないんだけど、言葉を喪失するというのは日本のアイデンティティー・・・おっと、独自性を捨てることだと思う。

小学校ではアメリカ語を教え始めるというが、そんなヒマがあるんなら日本の文化習慣や自分の好きなことを貫く信念についてもっと教えたらいいと思う。手段をではなく自分自身をまず磨かずに、世界が認めることもあるまいよ。

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