「カッコーの巣の上で」 感想

投稿者: | 2018-12-10

ミロス・フォアマン監督、1975年、アメリカ。

ジャック・ニコルソン扮する小悪党マクマーフィーが、ある日、詐病を疑われつつ刑務所から精神病院へ移ってくる。

マクマーフィーはすぐに、自分も含めた「患者」たちを抑圧し不自由を強いる病院側スタッフに対して反発するようになるが、その不自由は、実は「患者」たち自身の内にあるものだった・・・。

これもまた、タイトルに複雑な含みがあるようである。

カッコーと言えばまず托卵を思い浮かべるが、では誰がカッコーで、誰が宿主なのか。それは舞台そのものなのか、誰かの内面なのか。「巣の中のカッコー」という熟語なら、「集団の中に入り込んだ異質な存在」という意味があるそうな。ならばマクマーフィーはまんま当てはまるんだが。
また、精神病院をズバリ「カッコーの巣」と言う場合があるそうだ(蔑称らしい)。この表現はマザーグースにもあって、「三羽のガチョウがいて、一羽は東へ、また一羽は西へ、そして一羽はカッコーの巣の上を飛んでいた(=気が触れてしまった)」という。三羽は、誰の投影なのか。「裏切り」の挙げ句自殺するしかなかったビリーが絡むのか。
さらに、その歌は「インディアンのわらべ歌」というそうな。ならばこれはネイティブアメリカンの登場人物・チーフの物語であったのか。チーフがカッコーで、そのインキュベーターがマクマーフィーなのか。

なかなか、一筋縄では行かなそうだ。

最後、窓を打ち破り(殻を打ち破り)、自由という名の暗闇の中へ消えていくチーフ。その行く手には朝の明るさなどはまったくない。音のないエンドロールが重なっていく。

1960年代(原作発表時)のアメリカというのも踏まえて考えれば、テーマは「自由への道」「拘束・束縛への反旗」ということにはなるんだろう。でも、自由とはなんなのか? 不自由や束縛はどこにあるのか?(実は自分自身ではないのか?) という問いを突きつけられてもいるようであった。

重い映画だった。

しかしジャック・ニコルソン、オレ的には「イーストウィックの魔女たち」とか「バットマン」のキワ物・妖怪俳優のイメージが強かったんだけど、凄い演技者であることが分かった。

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