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2009/01/19 月

意識を意識してみる本

またムツカシイ本をムダに読んでしまった…。


なぜ難しいか。

人間に人間は理解できないと思うけどその限界領域のところの話だから、というのがひとつ。(章の扉にひとつ印象的な引用がある:「もし私に脳を理解できるほど複雑な頭脳があったなら、まさにそれゆえに私は脳を理解できないだろう」(エマソン・ピュー))

そんなビミョウな部分を精妙に語ろうとするとどうしても難しくなっちゃう、というのがひとつ。

アフォなのにそんな本を買って来んなよオレ、というのがひとつ(´Д`;)。
ま、それはいいとして。


「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤


という本なんである。

「錯視」から話は始まる。
「錯」というからには「間違い」なんだけど、人間(生物)の認識というのを考えると一概に「間違い」とは言えない、という話。

(Wikipediaで錯視の項を見るといろいろ錯視図形が見られる。確かに図形を見る限り錯覚としか思えないけど、例えば下図のようにある風景--遠近のある図など--の中にあてはめると、見かけはともかく実際の長さは違って当然、人間(生物)の目はむしろ正しく見積もっているということになる。)



このほか、意識には「来歴がある」、つまり本人の経験値と不可分であること(例えば「魂が突然入れ替わった」としても、味覚、触覚などの身体感覚が同じではあり得ない)、意識は外界との相対化によって決まる(環境や刺激があって初めて意識が“意識される”)、ということは、意識は人間(生物)の中ではなく外にあると言ってもいいことになる、などの<意識>を巡るトピックが語られていく。

…ムツカシイなぁ…。

面白いのは、終盤の「意識と無意識の境目」の部分である。
例えばぼーっと運転していてはっと我に返り、あれ、今どこをどう走って来たっけ、というのはよくあることだけど、要は<意識>は、なにか刺激やキッカケがあって初めて意識される。ということは、無意識が本来の状態なのである。

意識は無意識に従属している。
無意識のシミュレーションが意識だ。
ついでに付け加えれば、意識は記憶(力)の副作用である。

と、オレは考える者だが、それを追認できる本なのだった…読み方が正しければ(笑)。

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Comments

おもしろそう。
日ごろ仕事上で色色考えていますが、最近フロイト先生なぞは片隅に追いやられて・・・。
結局は「脳」だとは思うのですが、こういう考え方で様々な解釈ができるかもしれません。
でも結果に結びつくかどうか?は別ですけどねー。
お~、専門家がどう読むのか興味シンシン。
ぜひ読後感想文書いてください(笑)。

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