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2011/05/23 月

ブルックナーの謎

近ごろブルックナーに凝っている。
いや、この場合、凝っているという表現では物足りない。「巻かれている」、または時節柄不穏当ではあるが「押し流されている」という方がしっくりくる。

大きな羊羹の切り口を思わせる圧倒的な総奏。狂おしいほどに哀切なアダージオ。対位法のめくるめく美技。痺れと酩酊をもたらす同形反復。そして聴き始めるのに相当の覚悟を要するありえない長さ…。そこには、例えば愛の夢だの祖国の夜明けだの苦しみを超えて歓喜だのといったストーリーで割り切れるものはない。世俗的な理屈や感情は超越しちゃってるのだ。

「またあの長いアダージオかよ」とか思いながらも、ひとたび聴き始めたらただ宇宙のエーテルの中に身をゆだねるような感覚に巻き込まれ、そして忘我のまま最後まで押し流されるしかないのである。

かの名指揮者チェリビダッケはこうとも言った、「ブルックナーの交響曲の終わりにくると、完璧であるという感覚、つまりすべてを終えたという感覚を覚える」と。



ところが、レコードやCDのライナーノーツなどを読んでいると、例えば30も年下の美少女に求婚しては断られたの、ドナウ河畔の小石を数え始めたのと、ブルックナーという人そのものが超越しちゃってたんじゃないのか、というエピソードに事欠かない。いったいどういう人物なの?と常々思っていたので、またまた伝記を読んでみた。


作曲家 人と作品 ブルックナー (作曲家・人と作品)
作曲家 人と作品 ブルックナー」 根岸一美 (音楽之友社)


結論からいうと、その手のエピソードはあまり書かれていない。

「敵陣営の旗頭」であるブラームスとの会見の模様や(「燻製肉」が2人の理解し合える点であった)、交響曲第7番のスケルツォでトランペットから始まるテーマが、近所の雄鶏の鳴き声から着想された(この章が完成した時に声の主に挨拶しようとしたら、すでに女主人のフライパンの上だった、という)など、わずかながらくだけたエピソードもあるが(…その手の話の方がオレは好きなんだけどなぁ)、基本的には書簡や公的な資料を中心にしつつ、○年にどうした、○年になにがあったという具合に逐年的に書かれているために、読んで味わい深いという本ではなかった。(残念)

中では、「書道」を能くした、抜きんでたオルガニストであった、敬虔なローマカトリック信者であったなどは、交響曲の書法にも通じているしナルホドと思う。

一方、(書簡類がそもそも偏っている気もするんだけど)報酬の増額や博士号の要求など俗的な面がたびたび出て来るほか、作品の巨大さゆえになかなか理解されず、演奏不能の烙印が押されたり一部しか演奏されなかったり(時代を考えるとムリもないが)、ワーグナーへの敬愛ゆえ、かれを敵視する評論家ハンスリックから執拗な批判を浴びたりなどは、気の毒を通り越して哀れにさえ思えてくる。

なにしろ、素朴で不器用で世慣れない人だったようなのだ。



…と言いつつ、こうした些末なエピソードや人生の浮沈も、遺された大交響曲の前ではついどうでもよくなってしまうのである。

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