2008/01/04 金

少女的なるもの

あー、そういやぁ、中学から高校にかけての時代だったか、少女マンガをよく読んだっけなぁ。

いや、妹のを掠めたとかではなくて、毎月ちゃんと自分で買って読んでいた。特に「別冊少女コミック」。萩尾望都さんですよ、竹宮恵(現・惠)子さんですよ、以下(敬称略)、倉多江美、山田ミネコ、名香智子、佐藤史生、樹村みのりといった書き手が好きだった。

あれはなんだったんだろうか。
「少女」の純化された心象風景…のようなものへの憧れのようなものだったか。
そんなキレイキレイなものはありはしないのだということを知るのに大して時間はかからなかったけど(笑)、この本を読んで、久々にそんなアヤウイ感覚を思い出した。
(ちなみに著者はオレと同世代の人だ)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)
西の魔女が死んだ」 梨木香歩 (新潮文庫)


たぶん、青少年文学の傑作である。

ファンタジー小説かと思ったらそうではない。
西の魔女とは、主人公まい(女子中学生)の、西の方に住むおばあちゃんのこと。
まいは、現実世界のあんなことやこんなことがイヤになって、喘息や不登校を患い、おばあちゃんの家に寄宿することになる。

そこで「魔女の手ほどき」を受けることになるのだが…。

自然のディテイルや、人生をうまく過ごすためのコツの描写が素敵だ。
なにより、今まで読んだどんなお話でもお目にかかったことがない結末にびっくりする。

かつて少女的なるものだった人、または、に憧れた人は読んでみるといい。なにか心を揺さぶられるに違いない。

2007/12/30 日

北海道弁

いやいやいや、大したいいから禁断の全文引用してしまうべや。

食堂の先客数人は、帰郷した友人を囲み酒を飲んでいた。遅れて加わった人が開口一番「いやいやいやいや」。迎えた側も四回の「いや」で返す。笑顔が広がった▼久しぶりだね、元気だったかい。そんな会話が「いや×四」で済んでいる。弾む会話は何の話か「どこだって買うにいいべ」「なんも。高くて買えれないのさ」。一杯機嫌もあって、つい北海道弁が使わさるようだ▼年の瀬の店内に飛び交う「私がた」の言葉。よく使ったちっちゃこいときを思い出し妙な満足を覚える。したけど、おがってからは遠ざかった。恥んずかしくて。内地の人にはあやつけて、いいふりこかないばない▼もっと盗み聞きしていたかったが、先に店を出た。コートに寒気が入り込む。北海道は内地より冷える。帰郷した人の防寒着は大丈夫かな。まかなってから外に出る方がいいよ。方言の親近感は、そんな思いも生む▼道民は灯油の高値に困っている。暖房を抑えるのはゆるくない。正月ぐらいは暖かくなければ。その願いは「だはんこき」だろうか。どこにどこに。あずましくないっしょや。冷えれば肩こって、体もこわくなるし▼職場に届いた読者のメールに「ほんずない人たちがこの国を握っている」とあった。ほんずない人とは、ぼんやりした人、抜けた人の意味か。んだんだ。家でばんきり外套(がいとう)着て手袋はいてなんか、いられないんだわ。

卓上四季 北海道新聞

方言てホントいいよね。
地元の生活、心情、思想…云々を表現できる細やかさがあります。
こういう昔ながらの言葉が、東京偏重とTV隆盛のせいでどんどん失われていくのは、寂しいとかいうよりも日本の損失だと思いますね。

高校3年くらいの時に、卒業して東京へ行った先輩が夏休みに戻って来て、言葉が全然違うのに愕然としたことがあります。(特に、しゃべる途中にやたらと「××でさ~」の「さ~」が入るのが凄い違和感だった)

オレ自身も長く東京で生活して札幌に戻った時に、やっぱそう思われるのかな~なんて心配していたら、いやいやこれがまた。ほとんどみんな東京ナイズされてるもんだから、逆にまた愕然としてしまいました。

言葉の危機が、地元の危機だと思いますねぇ。

TVはいい加減にやめて、もっと家族や友達としゃべるべし。

2007/12/01 土

チーム・バチスタの栄光

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599) (宝島社文庫)
久々に虚構を読んでみますた。
サイエンス・フィクションは嫌いではないので。
と、非常にスピード感というか熱のある「書評」をダン・コーガイ氏のブログで読んだので。(正確にいうと「続きを読む…」以下は読んでないけど)

よい評論はそれ自体が触発する主体である、というようなことを吉田秀和せんせいだったかが書いていて、とても感心した覚えがあるんだけど、読書感想文にも自然と立ち上る浸透力がある、というのがアルファブロガーの才能というものなんでしょうねぇ。

*
さて、一読。
いわゆる医療ドラマです。ミステリーです。

「上手いミステリー小説」というのは、手口のための事件、事件のためのストーリーになりがちっていうのがあるから警戒しなければいけないんだけど、そのへんを差し引いて余る一級のエンタテインメント。

なによりキャラが立ちまくっている、というのは衆目の一致するところらしいですね。
「史上最強の万年講師田口公平」。
これは逢坂剛の「孤高のPRマン岡坂神策」、高村薫の「屈折した警部補合田雄一郎」の各シリーズなどを読んだ時の感覚を思い出しますな。
時を忘れて次の本、次の本、と読みふけったものですが、ちょっと、同じオカンがします。

もっとも、「ミステリー」とはいいつつ、事件の進行とか、捜査や立ち回りとかではなく、論理の積み重ねで物語を紡ぐという構成は、例えば「十二人の怒れる男」的な舞台設定を思い起こさせる部分もあるので、キャラをたんねんに描くことが自ずとお話の生命線なのかも知れない。

作者は現役の勤務医(病理学)なんだそうで。
読前、医者なんだったら、小説書くより医学の研鑽に時間を使えばいいのに…とまあ、意地悪に思わなくもなかったけど、読むとナルホドと思う。

例えば、小児臓器移植が日本でできないこと、ゆえに海外で手術を受ける家族も多いが、それがマスコミでは「美談」以上の取り上げ方がされないこと。
医学先進国の中で、日本では死亡時医学検索(剖検)の実施率が低く医学検証が十分とは言えないこと。(このへんは事件を解くカギともなっている)
さらに、「病院といういびつな生命体の排泄行為」…という極めつけの台詞。

こういった医学、医学行政、医学をとりまく社会生活の歪みへの疑問・提言は、(特に勤務医の立場であれば)直接語るよりも小説にまぶした方がうまく伝達できる、とは言えそうです。

なんにせよ、上下巻1,199円はとても安い買い物です。

チーム・バチスタの栄光」 海堂尊 (宝島文庫)


*
それはいいんだけど、またもや映画化なんだそうだ。
読んでじゅうぶんに面白いものを映画化する意味がよくわからない。要はひとつのコンテンツを美味しく何度も食おうという、卑しき日本の映像文化の発露なんだけど、原作を貶めるだけだと思うなぁ。

2007/11/24 土

ホロカメットク

上ホロカメットクの雪崩は大惨事になってしまった。
なくなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

*
大量降雪直後の入山ということで非難の声は高まるかも知れないけど、われわれからしたら「ベテランでも巻き込まれるのだ」という事実以外に教訓はありません。
心するのみであります。

2007/09/26 水

謎のマンガ家

巨匠・手塚治虫のメジャーデビュー作と目されている「新寶島」というマンガがありますが、これの初版本表紙を見ると、原作・構成者がいて「酒井七馬」となっています。
(中は見たことがありません。手塚治虫漫画全集版は確か読みましたが、これは手塚による復刻(翻案)だし、酒井の名はありません)

あの手塚治虫になぜ原作者が? しかも酒井七馬って人、その前後の活動をまったく寡聞にして知らない。誰?

と、かねてから疑問に思っていました。
別にかねてから頭を離れず悶えていた、つーほどではないんだけど…。

ある時、本屋さんでこの本に出合いました。

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影


ちょっと晴天の霹靂チックなショックを受けたのは確かであります。そして、「やっぱり謎のマンガ家なのであったか!」と目の前の霧が晴れるような心地がいたしました。

ちょっと大げさですが、いや、まあほんとです。

その酒井七馬の生涯と、手塚治虫ら当時の作家や、まさに始まったばかりのマンガ・アニメ・紙芝居といった画像文化との関わりを描いた伝記であります。

われわれが思うほど「謎」ではないらしいとか、若き手塚にストーリーテリングの勘所を教えた「師匠」らしいとか、かねてからの「疑問」を実に氷解させてくれました。

マンガ文化の黎明期に重要な役割を…いや時代を画したというほどの活躍をしながら、片や巨匠として歴史に名を残し、片や「謎の」と称される運命の数奇さ。

時を忘れて読了しました。

2007/09/23 日

遙かなる旅路

チベット旅行記 1 (1) (講談社学術文庫 263)
チベット旅行記」 河口慧海 (講談社学術文庫)


禅宗(黄檗宗)の僧であった著者が、20世紀初頭、鎖国中のチベットへ旅した時の紀行文。

旅、といっても物見遊山ではない。海を越え、山(ヒマラヤである)を超え、川で溺れ、雪にまみれ、あれ?これって20世紀のお話なんだよね?と時々錯覚を起こすほどの未開の大地を踏み、猛獣の声におののき、なにより人間に警戒しながら、約6年をかけ、約4,000kmの道のりを踏破した、遙かなロングドライブの記録です。

当時チベットは、欧州などの外圧から自らの宗教(すなわち国)を守るため、厳しい鎖国政策を敷いていた。外国人の入境はほとんど不可能と言われていた。それをただ、漢訳の仏典では解釈がまちまちでわからん、より原書に近い教典を、との一心で向かっていく。

まわりが危険だからと止めるのも「猛獣や盗賊に遭って殺されるならまた定めである」と斥け、溺れそうになっては「親類縁者への感謝と仏法を広めるために生まれ変わりを祈る」と覚悟を決め、荷物を亡くしては「(西洋のものを)持たぬがよかろうと仏陀の差配」と思い定める。心が座っている。

紀行文にいちいち仏法は書いてないんですが、覚悟そのもの、往き方そのものがすでに仏法なんですねぇ。

なんとまぁ有り難いお話でした。

しかし人間というのはとんでもないことを考え、成し遂げるもんだと舌を巻きます。(とても真似できん…)

2007/08/29 水

ある訃報

エドワード・ジョージ・サイデンステッカーさん(日本文学研究者、米コロンビア大名誉教授)(08/27 19:05)
26日午後4時52分、外傷性頭がい内損傷のため東京都内の病院で死去、86歳。米国コロラド州出身。葬儀・告別式は故人の遺志で行わず、後日、関係者がお別れの会を開く予定。
(中略)
米コロラド大卒。戦争中は日本語の語学将校。戦後来日し、東大大学院で日本研究などを専攻した。62年に帰米し、77年からコロンビア大教授。川端康成「雪国」や谷崎潤一郎「細雪」などの英訳のほか、「源氏物語」の全訳も手掛け、日本文学を欧米に紹介。川端のノーベル文学賞受賞の道を開いた。

訃報 北海道新聞

あれっ? この名前知ってる…なんでだろう?と思ったら、今読んでいる本に出ている人だった。

記事の中にもあるけど、「雪国」を訳した。
「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。」を、
「The train came out of the long tunnel into the snow country.」と訳した。

なるほど、「列車は長いトンネルを抜け、雪国に出た。」という即物的な描写と、それに加え「列車に乗った観察者である私が“くに”をまたぐトンネルを抜け、一面の雪景色に触れて感慨を得た」というニュアンスまで含んでいると思われる原文とでは、イメージが全然異なりますな。

本の中でこのくだりは、かの国とこの国の言語の「視点の違い」を説明するために引かれたものだけど、このように「言語が違う」という以上に「ものごとの感じ方そのものが違う」のであって、根本的にはわかり合えないということかも知れませんねー。

*
主語を抹殺した男/評伝三上章
ところで「本」とは、

主語を抹殺した男/評伝三上章」 金谷武洋 (講談社)

のこと。
三上氏に私淑してやまない以前読んだ本の著者が、その「日本語に主語は要らない」論を唱えた天才的かつ孤高の国語学者の生涯にスポットを当てた評伝です。

業績以外の生涯をなぞるということに若干の違和感は覚えつつ、昭和初年から約70年を生き、当時の「権威」に立ち向かった反骨の人の物語、面白く読み進めております。

2007/08/19 日

怪物はいかにして

ハンニバル・ライジング 上巻
ハンニバル・ライジング」 トマス・ハリス (新潮社)


「レッド・ドラゴン」、「羊たちの沈黙」、「ハンニバル」と続く“怪物”ハンニバル・レクター博士の系譜、こんどはその幼少時代を描く。“怪物”はいかにして“怪物”に成長したか? な物語。

しかしナンだ。
彼の少~青年期の精神形成に影響を与えた“伯母”は、なんと日本人。その名も「紫」(紫式部から取ったらしい)。
家具調度は当然西洋視点でカリカチュアライズされた和風(鎧かぶとに日本刀とかね)、おりおりに俳句や和歌を詠み交わし、お手紙には季節の小枝を添えたりする。

興ざめっす。
「ハンニバル」ではフィレンツェの陰影豊かな風景が美しかったけど、あれもフィレンツェ人が読んだら興ざめなのかな?とかよけいな心配ばかりが前に立って楽しめず。

ヤング・ハンニバル氏の性格も揺れている、というよりはブレていて、描ききられてはいないように感じる。

残念。

2007/08/19 日

時空の旅人

銀の三角 (1982年)
銀の三角」 萩尾望都 (早川書房)


世界に悪影響を及ぼしている「時空の歪み」の原因を取り除くべく、遠い「未来」からやってきた美貌の楽士ラグトーリン。これが縦軸とすると、その存在に「変動」を察知し、排除(暗殺)しようとするエージェント、マーリンが横軸。
この2軸が交わるところで事件が起こる。
ところがその交点はひとつではない。時空はひとつではなく、舞台は過去と未来、そして多重の世界を行き来し、物語も妖しく揺れ動いている。

(単純なタイムマシン的な時空観ではなく、虚数空間~多重宇宙といった新しい物理学の成果を踏まえているモヨウ)

1982年の作。
オレ、リアルタイムでこの本を持っていたが、いつしか手放してしまった。
ある時、なにかのきっかけで、また無性に読みたくなった。

当時読んで意味はよくわからなかったが、その空気感というか浮遊感というかが一種まだるっこしい幻影として深く沈殿していたのだ。
そんな気分が、なにかの拍子に呼び覚まされて、少しずつ膨らんでいった。

2年くらいその無性が続いたところで、先日ついに思い切ってポチした。

今回はそんなに難解とは感じなかった。
ラグトーリンの中性的な魅力とも相まって、実に味わい深く読んだ。
3度くらい読んだ。(まんが用の集中力はあるらしい)
古本市場では定価以上になっている本のひとつだが、買ってよかった。

こうして時間を経て呼び覚まされて、読んでまたガッカリしない。見事なお話である。
こんな不可思議なお話を、これほどの構成力で描ける作家、やはり萩尾望都なのである。

*
ところで萩尾望都といえば、「ポーの一族」。
その書評にまた凄いのがある。例の松岡正剛氏。

ああ、萩尾望都センセイ!

2007/08/16 木

ラスト藤沢周平

市塵〈上〉 (講談社文庫)
市塵」 藤沢周平 (講談社)


江戸中期(徳川綱吉とか吉宗の時代)に幕府の中枢で活躍した儒者、新井白石の一代記。
相当にドラマチックな人生だが、筆致がなんというか起伏なく、とうとうと流れる川を酒の出ない屋形船で下るがごとく、ところどころ見所はあるが大して驚きもない、という小説に仕上がっている。

短編は作為ばっかが目立ち、長編はかくもツマラン。
というわけで、オレ的には藤沢周平は今後パス。
(集中力がないせいかも知れない(^^;))
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